@ACMI (The Australian Centre for the Moving Image) Cinema 2
アルバム『冒険王』に収録された南佳孝の代表曲「Peace」の中で,「彼女」は,ゴダールの映画は難しいから嫌いだ,という。ゴダール,コルトレイン,ショートピース。学生が背伸びしてたしなむ代名詞のような気もする。かくいう僕も学生時代,初めてゴダールの映画に触れた時,何だか良くわからないながらも興奮して,わかったようなわからないようなことを言っていたような気がする。ただ,映画を「解読する」っていう見方があるんだということもその時知った。
僕はゴダールの信者でもなければ熱心な探究者でもない。背伸びをしても仕方がないので,以下ではアホだと思われることを承知の上で,自分なりに思うことを書く。
というわけで早速だが,僕にとってのゴダールは,四川省で食った激辛の火鍋に似ている。食った直後は,いやぁ,もうご勘弁と思う。あれで僕の消化器系は完膚なきまでに破壊されたわけだが,しばらくすると,またちょっと試してみたいような気にさせる。そんな感じ。
『映画史』を観た時,最初は緊張してスクリーンに対峙し,そこで繰り広げられる映像と音,言語の洪水を自分なりに読み解こうともがいた。しかし,映画の中盤で,僕の脳はほとんど思考を停止した。そこから先はもうどうしようもないので,その溢れる情報の洪水の中に,ただ身を浸すことにした。ところが,これが意外と心地よかったりするのだ。もちろん,正直に告白すると辛い時間帯もあった。でも,一見不規則にも見えるが,その実計算されている情報のコラージュに,思考を止めたはずの脳が間欠的に再起動するのだ。頭をリラックスさせるってことが重要なのね,と思ったりもした。
たとえば,交響曲を聞く時,個々の楽器の音に耳をすます聞き方と,全体として組織された音を楽しむ聞き方があるだろう。『映画史』で僕が最後に取った方策はまさに後者であったわけだ。解読はそのスジの人に任せて,自分はあるがままに感じ取ればいいかと。ただ,結局,その後「あるスジの人」の解読など読むこともなく過ごしてしまったのだが…
こんな言い方もできる。現代の生活に携帯電話は欠かせないが,携帯で話しながら Slepian-Wolf 符号化について考えたり,通信路符号化定理を思い起こす庶民は決して多くないはずだ(情報理論研究者にだってそこまでのジャンキーがいるかどうか!?)。それと同じことだ。
というわけで,今回も一映画庶民として,映像と音とナラティヴの洪水に身を任せようと決めて臨んだ。すると,上映前にこんなアナウンスが。「監督の意向により,一部のダイアログからは英語字幕を削除してあります。」だと。そうか,言語は理解しなくてもいいんだ。その意味でいうと僕の見方は実は正しいのかも,なんてことを思って見始めたんだが,いやぁ,やっぱり火鍋だ,こりゃ。でも,今回興味深かったのは,音と映像が乖離して,その浮いた音が次のカットに引き継がれて,というように,水に浮かんで夢を観ているような不思議な感覚を味わえたこと。ときどき思い出したように英語の字幕が入るんだが,途中からそれもあまり読まなくなった。ある種のトリップ状態で観てたかもしれない(寝てたわけではないぞ,言っとくけど)。
いずれにせよ,稀有な映像体験をできたことだけは確かだ。知的好奇心として,坂本龍一や浅田彰がこの作品をどう評するか聞いてみたい気はする。このあたりのユルさが,映画的庶民としては正しいでしょ? 違うか??
今,観終わってから 5 時間くらい経た時点でこれを書いているけど,実はちょっともう一回観たい気がしてきている…そういえば,Swanston St. に四川火鍋の店があったなぁ…
Film Socialisme (邦題:ソシアリスム)
(2010 年 / スイス=フランス / 101 分)
監督:Jean-Luc Godard
出演:Catherine Tanvier / Christian Sinniger / Jean-Marc Stehlé / Patti Smith
★★★★★★★☆☆☆
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