2010年12月10日金曜日

前進せよ

たまにはまじめなこと書くぞ。

あんまり知られていないみたいだが,オーストラリアの国歌は "Advance Australia Fair" というそうだ。和訳では,

前進せよ,美しのオーストラリア

という。

一方,寺山修司はこんな言葉を残している。

振り向くな,振り向くな,後ろには夢がない。

もうちょっと理系な人では,ヤコビアンでおなじみ,ドイツの数学者 カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビが

つねに遂行せよ。

なんてことを言っているらしい。

…まだ,話が見えませんね。

さて,僕の職場ではここ 3 年,「国際通用力のある若き実践的エンジニア育成」プログラムという事業(通称:SPHERE TOKYO プロジェクト)を進めてきた。これは文科省が指定する「質の高い大学教育推進プログラム(教育 GP)」の一環で,国際舞台で英語を使ってプレゼンやディスカッションができるような若い技術者を育てるための教育システムを構築する,というのが主たる目的。

今年は 3 年計画の 3 年目で,今日,3 年間の最終成果報告会があったらしい。僕もこのプロジェクトの幹事の一人として計画段階から関わっていた(一応,ロゴデザインと SPHERE の命名は僕の作品…無報酬……無報酬…)んだけれど,一番大事な最終年度に海外に高飛びしたというわけ。そのせいで,何人かの先生方にはいろいろと想定外のご負担をかけてしまった。ごめんなさいね。いや,ホンット,申し訳ない。

さて,プロジェクトの目的は上に書いたとおりだが,この事業を通して学生に伝えたいことは「英語って大事だよ」ということだけではない。誤解を恐れずに言えば,「英語」はもっと大切なことを伝えるための媒体に過ぎないかもしれない。で,本当に伝えたいことは何かというと,

とりあえず,やってみろ

ってことだ。ウチの学校に限ったことじゃないと思うが,自分が学生だったことに比べると,積極的で元気のいい学生が少なくなってきたような気がする。昔はもっとバカみたいなことを後先考えず,本気で始める元気と勇気のある輩が多かったように思うわけ。

まぁ,後先は多少考えてくれないと困るんだが,それでも何もしないよりはやってみた方がいい。10代のうちから失敗を恐れて手を出さないというのは,もったいないと思う。やってみることのメリットは計り知れないし,仮に失敗したってそこから学べることは多い。それに結果はともかく,トライしたことによる経験値は絶対に糧になる。年寄りになってからは失敗すると取り返しがつかないこともあるから,学生のうちの特権だと思うんだけどね。特権が与えられているのに使わないなんて,ホントもったいない。まぁ,「特権」だと気づいていないって話もあるけどね。

だから,このプロジェクトを通して,できるだけ多くの学生に積極的に一歩前に出る経験をして欲しいというのが僕らの本音の部分にあったわけ。
(そうですよね? 僕,暴走してませんよね? >> 他の先生方)

かくいう僕も学生時代,なんでもかんでもやってきたかというと,そうでもない。「あれもやりたかった。」「あんときこうすればよかった。」ってことがないわけじゃない。でも「あれはやってみてよかったなぁ」って経験だって確かにあるわけだ。で,そういうときに積んだ経験ってのは,今でも自分の行動原理の一部になっていたりすると思うんだよね。

ということで,学生の皆さんには,今のうちにいろんなことにチャレンジして経験値を高めてほしい。で,その経験値を活かして,懐の深い「素敵に遊べる」大人になって欲しいと思うね。

僕もまだ修行が足りないと思うし,もう少しいろいろやってみようという悪だくみは尽きない。もう少し,遊んでみようかね? ってね。……暗に自分の行動を正当化してるわけでないぞ。念のため。

2010年12月9日木曜日

続・衝撃の事実

すんまへん!(←「あかんたれ」の秀松風に…)

書くの忘れてました。

先週末,「衝撃の事実」をポストした後,今週になって,その後の展開をフォローするのを忘れてました。楽しみにしてた方,ごめんなさい。

まぁ,楽しみにしてた方は,あんまりいないと思うけど,blogger の統計データ上は「衝撃の事実」を観てる人が結構いるようなので,一応ね。

話が見えず,上のリンクも辿りたくない人のために一応おさらいしておくと,この年末年始,12/24 から 1/4 までの間,僕の住んでいるアパートの食堂(3 食ともサーブされる!)が閉鎖されるので,我々住人の飯がどうなるのかという問題。で,この期間は自炊するべく,フルキッチンのついた広めの部屋に安い値段で移らせてくれ,と交渉した,っつぅ話。

すぐ返事が来ると思ったのだが,結局,返事が来たのは昨日(この辺はお国柄)。で,結末は…

大きい部屋はどこも空いてない

ほんまかいな。少なくともアカデミックビジターは僕を含めて 4 人くらいしか年末年始いないはず。大きい部屋は少なくとも 10 部屋ある。んんんんん,どう考えても計算が合わん。子供でも分かるでぇ。その間,誰がその部屋使うの? 誰がブッキングしてんの?

まぁ,想像するに
  1. 食事なしの素泊まりを条件に,大学関係者や外部の人に格安で貸し出している。
  2. めんどくさいことをいうのでやんわり断られた。
くらいしか思いつかん。この間,レセプションも含めてここのスタッフはほぼいないはずなので,短期滞在者が次々やって来ても鍵の受け渡しは不可能。だから,普通のホテル風な貸し出しはできないと思うんだよね。

まぁ,いずれにしても,我々の野望は砕かれた。この年末年始は外食 or 公園でバーベキュー or 電子レンジで簡単クッキングのいずれかで食いつなぐことになりそうだ。公園にはバーベキューピットがあるので,雨さえ降らなければ,なかなか魅力的ではあるんだけどね。8 時くらいまで明るいしね。でも,毎日はきついけど…

部屋で料理しようにも鍋がないしね。キャンプしたから野宿用のちっこいコッヘルは持ってるけどさ…

実際にどう過ごすかは,またその頃にリポートします。

2010年12月8日水曜日

textext で日本語

ずいぶん前に inkscape と textext を導入して,Tex の数式を含む図を作成する環境を整えた話をした。

たいてい,論文は英文で書くので,当然図の中の文字も英語なもんで,あまり気付かなかったのだが,何もしないと textext では日本語が通らない。日本語で書いている本の挿絵でも作ろうかな~と思ったもんで,textext で日本語が使えるよう,設定した。

以下,こちらこちら,およびこちらを参照して,自分が行なった作業を記録として残す(以上の参照サイトに掲載されている以上の情報は何もない。あしからず。)。

[1] Inkscape\share\extensions\textext.py の 54 行目 "import inkex" の下に以下を追加:

import codecs

[2] 735 行目を

            #f_tex.write(texwrapper)

とコメントアウトして,その下に以下の 2 行を追加:

            sjis_tex = codecs.getwriter('shift_jis')(f_tex)
            sjis_tex.write(texwrapper)

これで文字コードを sjis に変換して Tex に渡すことができる。
ちなみに python では行頭の空白も揃えないと正常に動かないので注意(タブなんかを使わないこと。)。

[3] 742 行目を

        #exec_command(['pdflatex', self.tmp('tex')] + latexOpts)

とコメントアウトして,以下の 2 行を追加:

        exec_command(['platex', self.tmp('tex')] + latexOpts)
        exec_command(['dvipdfmx', self.tmp('dvi')])

これは日本語を処理できない pdflatex の代わりに platex と dvipdfmx を用いるための設定。

[4] 863 行目 の "# Exec pstoedit: pdf -> svg" の下に

        exec_command(['gswin32c', '-dSAFER', '-q', '-dBATCH', '-dNOPAUSE',
                      '-sDEVICE=epswrite', '-dEPSCrop', '-r9600',
                      '-sOutputFile='+self.tmp('eps'), self.tmp('pdf')])

を追加。さらに,その下の3行を以下のように変更:

        exec_command(['pstoedit', '-f', 'plot-svg',
                      self.tmp('eps'), self.tmp('svg')]
                     + pstoeditOpts)

ちなみに変更箇所は 2 行目の "self.tmp" の中を 'pdf' から 'eps' にしただけ。これにより,フォントをアウトライン化して eps 形式で吐き出す。

[5] 以上の書き換えを行なった python のスクリプト "textext.py" を別名 "textext-jp.py" として保存。また,この "textext-jp.py" に対応させるため,"textext.inx" をコピーしてファイル名を "textext-jp.inx" とし,中身を適宜書き換え。

これにより,日本語を使いたいときはエクステンションとして textext-jp を,そうでないときは従来通り textext を用いることができる。

これについてはこちらを参照したが,このことでどの程度のご利益があるかは不明。少なくとも日本語を用いない場合は,今回新しく作成した拡張ファイルを使わなくても良いので,これまで安定して動いていた環境のまま,ということにはなる。


以上でおしまい。ちなみに,出力例は下図の通り。


これで教科書の挿絵が作れそうだ(ちなみに,上の例は執筆中の教科書とは何の関係もない。)。

2010年12月7日火曜日

純粋であること

今日は青臭いこと書くけど…ごめんなさいね(いきなり謝ってどうする…)。

さて,先日,映画「告白」を観た後で,あの映画のウラには

コミュニケーション,理解,信頼,想像力などの欠如,喪失

が流れている,と書いた。あの作品が,コミュニケーションや信頼,理解の喪失の極北に位置しているとすれば,今日,日本映画祭のクロージング上映で観た成島出監督,堤真一主演の映画「孤高のメス」は,それと真逆の方向に最大振幅振れていると言っていいだろう。

ある地方都市の病院に赴任してきた外科医が主人公。保身的な学閥の医師たちに疎まれるが,院長や看護師,若い医師らの信頼を得ながら,困難な手術を次々と極めて手際よく成功させていく。そんな中,病院の支持者であった市長が病に倒れ,当時違法であった脳死肝移植を行なうことを決意する,というのがストーリーの柱。

実際,マンガにもなっているらしいが,マンガ的な出来すぎたストーリーである。こういう話はウソ臭くなりがちだが,この作品には,そんな嫌味なウソ臭さが感じられない。それには 3 つの理由が挙げられる。一つは手術の描写がリアルであること。ただ,近年の医療ドラマや映画は極めて精巧に作られているので,これは特筆するに当たらない。

2 点目は,堤真一演じる主人公の当麻鉄彦が,腕のいい外科医でありながら,孤高の天才というよりも,人間としての温かみのあるキャラクターとして描かれていることだ。僕にとっての堤真一と言えば,「弾丸ランナー」に始まる一連の SABU 作品をどうしても思い浮かべてしまう。どちらかと言えばクソまじめで面白くもなんともない人間なんだけど,トラブルに巻き込まれて,それが異様におかしいという…「MONDAY」なんて,思い出しただけで今でも十分笑える。だから,どんなにまじめな役を演じていても,何かやるんじゃないかと思って,どうしても観ながらにやけてしまうのだ。そんなこともあるものだから,この映画で主人公が時折見せるお茶目な一面に,「来た来た」と思って,ニヤニヤしてしまう。その意味で,このキャスティングは絶妙だし,この辺りの描写が,この作品のトーンを形成する上で一種の緩衝材になっていると言える。

そして,3 番目の理由。それは,この作品が,人と人とのつながり,信頼,理解,コミュニケーションを明に描いているということだ。主人公は純粋なまでに自らの信念を貫き通す。現実では,そういった場合,何らかの破綻をきたすことが多いわけで,フィクションとは言え,この手の話の流れはウソ臭くなっても仕方がない。ところが,この映画は形式的には医療の問題を扱っていながら,作品を貫くテーマが人間どうしのつながりであるという点,このことがこの作品を支える大きな要因になっていると,僕は思う。

医療の現場に限らず,僕が身を置く教育の世界においても,我々がピュアであり続けることは難しい。現実の社会で起こる諸問題には,多くの場合,最適解が存在せず,我々にはその中から最適解に最も近い準最適解を選択することが求められる。ところが,この準最適解というやつは曲者で,どちらの方向から見るかによって,より数学的に言えば,どの座標軸に射影するかによって「最適」であることの意味合いが変わってくる。このような状況で,この映画の主人公のように純粋であり続け,ぶれることなく自らの信念を貫き通すことは非常に困難だ。僕自身,運よく比較的良い解を見つけられたこともあれば,苦い思いをしたことも少なくない。そんな,ある種「究極の選択」を迫られた場面で,何をよりどころにするかというと,やはり人間どうしのつながり,信頼や理解,意志疎通に他ならないと思う。いかにこの物語が一見,作りものめいた体裁をしていようとも,作品を貫くこのテーマが僕にはリアルに訴えかけてきたし,主人公・当麻の姿に快哉を叫ばせてくれた。

映像作品として難がないわけじゃない。亡くなった看護師の日記を若い医師でもある息子が読みながら過去の出来事を辿るという形式上,モノローグが多いのは仕方ないとは思うが,もう少し処理のしようがなかったか?

でも,そんなことは大きな問題ではなかった。少なくとも僕にとっては,これまでに経験したことを思い出させてくれ,これからのことを考えさせてくる契機を与えてくれたし,良い方向に気持ちをリセットさせてくれたという意味で,感謝すべき素晴らしい映像体験だった。

現実社会の中でバランス感覚を保つことは難しいよ。でも,その中ですべてと言わずとも,どれだけ自分のピュアな思いを保つことができるか。人と接する職業柄,この問題は僕らが常にに抱え続けなくちゃいけないトレードオフ,永遠に解決することのできない未解決問題であると思う。

ま,そこが面白いと言えば,面白いんだけどね。


追記:(最近,これが多い)
ところで…反当麻の医者の一人を演じていた斉藤歩さんの肝臓は,今,元気なんだろうか?

写真のふちをぼかす

画像の周辺をぼかす方法について,前にも調べたんだが,すぐに忘れてしまうんで,自分の手元に残しておくべく,ここに備忘録として記す。

Adobe の Photoshop Elements でもできるが,今回はフリーの GIMP (ver.2.6.11) を使用。

[1] GIMP を起動し,加工したい写真を読み込む。

[2] 「選択」→「すべて選択」,「編集」→「コピー」。

[3] 「ファイル」→「新しい画像」で,「詳細設定」→「塗りつぶし色」→「透明」。キャンバスサイズは[2] でコピーした画像と同じになるはず。

[4] 「編集」→「貼り付け」で,[2] でコピーした元画像をペースト。

[5] 適当な選択ツールでぼかしたい領域を選択(下は楕円選択ツール)。


[6] 「選択」→「選択範囲を反転」。

[7] 「選択」→「境界をぼかす」を選択。「縁をぼかす量」は 5~50ピクセルくらいの値を適当に入力(元画像のサイズと出来上がりイメージに依存)。

[8] 「編集」→「消去」で周辺画像が消去され,縁のぼけた画像が残る。


[9] 「ファイル」→「名前を付けて保存」で適当なフォーマットでエクスポート。JPEG では透明色を扱えないので,他の画像の上に重ねたい場合など,背景を透明のまま残したい場合は PNG なんかを用いると良い。

以上。

補足: inkscape でもできるのかも知れないが,ちょっと面倒くさそうだ。

2010年12月6日月曜日

湿り気と匂い

久々に日本映画らしい映画を観た。

昨日見た「劔岳」「鳥刺し」も日本映画らしいと言えば日本映画らしいのだが,ここでの日本映画はもっと狭義の「日本映画」。

ある時期(たぶん,70 年代から 80 年代初めにかけて)の日本映画には,独特の匂いがあったように思う。湿ったアスファルトや土の匂いだったり,木造アパートのカビ臭い匂いだったり,煙草や安物の化粧品の匂いだったり,生き物としての人間が放つ有機的な匂いだったり…

今日は日本映画祭で根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻」を観た。太宰治の同名小説を柱に,他の太宰作品のエッセンスを加えて 1 本の映画に仕上げている。主演は松たか子と浅野忠信。厭世的で,死にたいのに死に切れないダメ人間の夫と,楽天的で明るく芯の強い妻。こういうラブストーリーもあるのか,と思わせる。ラストで象徴されるように,二人はあまり互いのことを見ない。対面せざるを得ない留置所のシーン,ここで妻は唯一,悲しみの感情を高ぶらせる。ここを境に,ラストに向かって物語を進める根岸演出も確かで隙がない。よくできた映画だ。

でも,僕が一番唸ったのは,スクリーンに映った演技や映像ではなく,物理的にはスクリーンから伝わるはずのない「匂い」だ。「かおり」じゃなく「におい」。主人公の大谷は「死にたい」と連発し,実際心中未遂もするのだが,スクリーンからは死の匂いではなく,むしろ生の匂いがプンプンしてくる。これはかつての日本映画が持っていた独特な匂いだと思う。冒頭に述べたような湿っぽい雨の匂い,安酒場の煮込みの匂い,そして人間自身が放つ「生」の匂い,これはそこはかと漂うエロスの匂いでもある(見せないエロチシズムも,ある意味,日本映画の宝だと思う)。そう,この映画から感じる匂いは,「生の匂い」と言っても,ヴィヴィッドで明るい朗らかさを感じさせるような匂いではない。それは死と背中合わせになった生の匂いだ。何というか,相転移における臨界点に位置するような…そうか,その意味では「生の匂い」であり,かつ「死の匂い」であるわけだ。「死を見据えた生の匂い」とでもいうべきか。その意味で,この作品からこの匂いを感じるのは必然なのかもしれない。

物語では時折「死の予感」を漂わせながら,ラストはすがすがしいような「生」を感じさせる。表層的な死生観と対照的な「生の匂い」。その振幅の大きさ,ダイナミズムがこの映画の魅力と言えるんじゃないだろうか。

人は誰しもが生きていながら,それは同時に死への道行きでもあるわけだ。「死ぬことは生きることだ」とは誰の言葉だったか?そういえば,太宰好きで知られる宮本浩次も「敗北と死に至る道が生活ならば~」と唄っていたっけ。

そうそう,帝都東京の中心から少し離れた生活圏へと走る中央線が,またこの独特な匂いを増幅しているようにも思えた。

うーん,こっちに住んでて日本料理を食べたくなることはあまりなかったんだけど…踏切沿いの酒場の煮込みが少し恋しくなったなぁ…あと 4 ヶ月は辛抱しないとなぁ…


追記: …と,一通り書き上げて,自分で読み直してみたら,RC サクセションの「いい事ばかりはありゃしない」が聴きたくなった。というわけで,ちょい聴いて,そいで今日は寝ます。

2010年12月5日日曜日

本格派

今日も日本映画祭で 2 本観てきた。今日観たのは,去年,見逃してぜひスクリーンで見たいと思っていた木村大作監督「劔岳 点の記」と平山秀幸監督の時代劇「必死剣 鳥刺し」の 2 本。いやぁ,どちらも映画の醍醐味を思う存分味わえる本格派だった。どちらにも満足。

まず,「劔岳」の方だが,こちらは日本では昨年公開されて,いろんな映画賞を持ってったことでも記憶に新しい人も多いはず。陸軍測量部が三角点を設置するために,前人未踏の剱岳登頂を目指す物語。

木村大作御大は「本物」にこだわり,役者,スタッフと共に本当に登山を敢行し,特撮などではないリアルな立山連峰の映像を大スクリーンに映し出した。(この撮影の過酷さは,キネマ旬報で連載していた香川照之の「日本魅録」に詳しい。)本物の自然の迫力には逆らえない。スクリーンに広がる険しい山々や雲海,色づいた木々の美しさの前にはひれ伏すしかない。雪渓を進む登山隊を俯瞰で捉えたショットなんて,自然の中で人間がいかにちっぽけな存在かを思い知らせてくれる。その骨太な映像に負けじとストーリーも骨太。旧陸軍のメンツ主義はバカみたいだが,自然に立ち向かっていく男たちのドラマとして秀逸。

クレジット上の主役は浅野忠信なんだろうが,これ,実際は香川照之の映画だよ。連載エッセイでは愚痴,ぼやきの連続だったが,なんだかんだ言って出来たものを見ると,一番報われてると思いますよ,香川さん。

2 本目の「鳥刺し」は,新鮮なとこをわさび醤油でいただくと美味いやつじゃない。藤沢周平原作の海坂藩もの時代劇。藤沢の海坂藩ものというと,近年では一連の山田洋次監督作が思い浮かぶが,作風は全く違う。山田作品は,武家社会を背景にヒューマニズムあふれる人間ドラマという印象が強いが,本作は,かなり硬派な時代劇。主人公・兼見三左エ門は,藩主の妾・連子を城中で衆目の中,刺殺する。決死の覚悟の上の行為だったが,なぜか彼には寛大な処分がくだされ,斬首を免れる。なぜ,彼は連子を殺したのか?なぜ,死を免れたのか?タイトルの「鳥刺し」とは何か?観客にとっては,その辺りを探るミステリーとしての楽しみもある。

ところが,そう見えて,この作品は,実に古典的で,かつ丁寧に作られた本格派時代劇。武士や武家の女性のしぐさ,身のこなし,衣擦れの音にもこだわりが見られる。ストーリーは静謐なタッチで進みながら,さまざまな伏線を経てクライマックスへとなだれ込んでいく。この辺りも,奇をてらわないオーソドックスなスタイルだけれども,ぐいぐい引き込まれていく。そして,何と言ってもラスト 15 分のチャンバラシーン。リアルな立ち回り,刀の音,刀の向き(!),過剰なまでに飛び散る血しぶき。刀を握る手の震え,汗と血の匂い,痛さ,恐怖,そんなものが見ているこちらにまで伝わってくるような迫力。さすがに観客からも声が漏れてた。時代劇を観たことがない人でも,このシーンを見たら,虜になるかもしれない。

主演の豊川悦司,それを支える池脇千鶴もさることながら,久々に見た吉川晃司がなかなか良かった。一方,映画にいい味を加えた小日向文世が途中から忘れられキャラになってしまったのはご愛嬌?

外国人には理解できないかもしれない部分もなくはないけれど,これだけ本格的な日本映画が作られたこと,それをスクリーンで観られたことを,素直に喜び,感謝したい。そして,この 2 作が共に東映の作品であったことも最後にリマークしておきたい。経営的には決して安泰とは言えないはずだが,往年の東映作品の力強さが蘇ったように思え,嬉しい。こういう骨太な作品を今後も作り続けて欲しいと思う。