2010年12月7日火曜日

写真のふちをぼかす

画像の周辺をぼかす方法について,前にも調べたんだが,すぐに忘れてしまうんで,自分の手元に残しておくべく,ここに備忘録として記す。

Adobe の Photoshop Elements でもできるが,今回はフリーの GIMP (ver.2.6.11) を使用。

[1] GIMP を起動し,加工したい写真を読み込む。

[2] 「選択」→「すべて選択」,「編集」→「コピー」。

[3] 「ファイル」→「新しい画像」で,「詳細設定」→「塗りつぶし色」→「透明」。キャンバスサイズは[2] でコピーした画像と同じになるはず。

[4] 「編集」→「貼り付け」で,[2] でコピーした元画像をペースト。

[5] 適当な選択ツールでぼかしたい領域を選択(下は楕円選択ツール)。


[6] 「選択」→「選択範囲を反転」。

[7] 「選択」→「境界をぼかす」を選択。「縁をぼかす量」は 5~50ピクセルくらいの値を適当に入力(元画像のサイズと出来上がりイメージに依存)。

[8] 「編集」→「消去」で周辺画像が消去され,縁のぼけた画像が残る。


[9] 「ファイル」→「名前を付けて保存」で適当なフォーマットでエクスポート。JPEG では透明色を扱えないので,他の画像の上に重ねたい場合など,背景を透明のまま残したい場合は PNG なんかを用いると良い。

以上。

補足: inkscape でもできるのかも知れないが,ちょっと面倒くさそうだ。

2010年12月6日月曜日

湿り気と匂い

久々に日本映画らしい映画を観た。

昨日見た「劔岳」「鳥刺し」も日本映画らしいと言えば日本映画らしいのだが,ここでの日本映画はもっと狭義の「日本映画」。

ある時期(たぶん,70 年代から 80 年代初めにかけて)の日本映画には,独特の匂いがあったように思う。湿ったアスファルトや土の匂いだったり,木造アパートのカビ臭い匂いだったり,煙草や安物の化粧品の匂いだったり,生き物としての人間が放つ有機的な匂いだったり…

今日は日本映画祭で根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻」を観た。太宰治の同名小説を柱に,他の太宰作品のエッセンスを加えて 1 本の映画に仕上げている。主演は松たか子と浅野忠信。厭世的で,死にたいのに死に切れないダメ人間の夫と,楽天的で明るく芯の強い妻。こういうラブストーリーもあるのか,と思わせる。ラストで象徴されるように,二人はあまり互いのことを見ない。対面せざるを得ない留置所のシーン,ここで妻は唯一,悲しみの感情を高ぶらせる。ここを境に,ラストに向かって物語を進める根岸演出も確かで隙がない。よくできた映画だ。

でも,僕が一番唸ったのは,スクリーンに映った演技や映像ではなく,物理的にはスクリーンから伝わるはずのない「匂い」だ。「かおり」じゃなく「におい」。主人公の大谷は「死にたい」と連発し,実際心中未遂もするのだが,スクリーンからは死の匂いではなく,むしろ生の匂いがプンプンしてくる。これはかつての日本映画が持っていた独特な匂いだと思う。冒頭に述べたような湿っぽい雨の匂い,安酒場の煮込みの匂い,そして人間自身が放つ「生」の匂い,これはそこはかと漂うエロスの匂いでもある(見せないエロチシズムも,ある意味,日本映画の宝だと思う)。そう,この映画から感じる匂いは,「生の匂い」と言っても,ヴィヴィッドで明るい朗らかさを感じさせるような匂いではない。それは死と背中合わせになった生の匂いだ。何というか,相転移における臨界点に位置するような…そうか,その意味では「生の匂い」であり,かつ「死の匂い」であるわけだ。「死を見据えた生の匂い」とでもいうべきか。その意味で,この作品からこの匂いを感じるのは必然なのかもしれない。

物語では時折「死の予感」を漂わせながら,ラストはすがすがしいような「生」を感じさせる。表層的な死生観と対照的な「生の匂い」。その振幅の大きさ,ダイナミズムがこの映画の魅力と言えるんじゃないだろうか。

人は誰しもが生きていながら,それは同時に死への道行きでもあるわけだ。「死ぬことは生きることだ」とは誰の言葉だったか?そういえば,太宰好きで知られる宮本浩次も「敗北と死に至る道が生活ならば~」と唄っていたっけ。

そうそう,帝都東京の中心から少し離れた生活圏へと走る中央線が,またこの独特な匂いを増幅しているようにも思えた。

うーん,こっちに住んでて日本料理を食べたくなることはあまりなかったんだけど…踏切沿いの酒場の煮込みが少し恋しくなったなぁ…あと 4 ヶ月は辛抱しないとなぁ…


追記: …と,一通り書き上げて,自分で読み直してみたら,RC サクセションの「いい事ばかりはありゃしない」が聴きたくなった。というわけで,ちょい聴いて,そいで今日は寝ます。

2010年12月5日日曜日

本格派

今日も日本映画祭で 2 本観てきた。今日観たのは,去年,見逃してぜひスクリーンで見たいと思っていた木村大作監督「劔岳 点の記」と平山秀幸監督の時代劇「必死剣 鳥刺し」の 2 本。いやぁ,どちらも映画の醍醐味を思う存分味わえる本格派だった。どちらにも満足。

まず,「劔岳」の方だが,こちらは日本では昨年公開されて,いろんな映画賞を持ってったことでも記憶に新しい人も多いはず。陸軍測量部が三角点を設置するために,前人未踏の剱岳登頂を目指す物語。

木村大作御大は「本物」にこだわり,役者,スタッフと共に本当に登山を敢行し,特撮などではないリアルな立山連峰の映像を大スクリーンに映し出した。(この撮影の過酷さは,キネマ旬報で連載していた香川照之の「日本魅録」に詳しい。)本物の自然の迫力には逆らえない。スクリーンに広がる険しい山々や雲海,色づいた木々の美しさの前にはひれ伏すしかない。雪渓を進む登山隊を俯瞰で捉えたショットなんて,自然の中で人間がいかにちっぽけな存在かを思い知らせてくれる。その骨太な映像に負けじとストーリーも骨太。旧陸軍のメンツ主義はバカみたいだが,自然に立ち向かっていく男たちのドラマとして秀逸。

クレジット上の主役は浅野忠信なんだろうが,これ,実際は香川照之の映画だよ。連載エッセイでは愚痴,ぼやきの連続だったが,なんだかんだ言って出来たものを見ると,一番報われてると思いますよ,香川さん。

2 本目の「鳥刺し」は,新鮮なとこをわさび醤油でいただくと美味いやつじゃない。藤沢周平原作の海坂藩もの時代劇。藤沢の海坂藩ものというと,近年では一連の山田洋次監督作が思い浮かぶが,作風は全く違う。山田作品は,武家社会を背景にヒューマニズムあふれる人間ドラマという印象が強いが,本作は,かなり硬派な時代劇。主人公・兼見三左エ門は,藩主の妾・連子を城中で衆目の中,刺殺する。決死の覚悟の上の行為だったが,なぜか彼には寛大な処分がくだされ,斬首を免れる。なぜ,彼は連子を殺したのか?なぜ,死を免れたのか?タイトルの「鳥刺し」とは何か?観客にとっては,その辺りを探るミステリーとしての楽しみもある。

ところが,そう見えて,この作品は,実に古典的で,かつ丁寧に作られた本格派時代劇。武士や武家の女性のしぐさ,身のこなし,衣擦れの音にもこだわりが見られる。ストーリーは静謐なタッチで進みながら,さまざまな伏線を経てクライマックスへとなだれ込んでいく。この辺りも,奇をてらわないオーソドックスなスタイルだけれども,ぐいぐい引き込まれていく。そして,何と言ってもラスト 15 分のチャンバラシーン。リアルな立ち回り,刀の音,刀の向き(!),過剰なまでに飛び散る血しぶき。刀を握る手の震え,汗と血の匂い,痛さ,恐怖,そんなものが見ているこちらにまで伝わってくるような迫力。さすがに観客からも声が漏れてた。時代劇を観たことがない人でも,このシーンを見たら,虜になるかもしれない。

主演の豊川悦司,それを支える池脇千鶴もさることながら,久々に見た吉川晃司がなかなか良かった。一方,映画にいい味を加えた小日向文世が途中から忘れられキャラになってしまったのはご愛嬌?

外国人には理解できないかもしれない部分もなくはないけれど,これだけ本格的な日本映画が作られたこと,それをスクリーンで観られたことを,素直に喜び,感謝したい。そして,この 2 作が共に東映の作品であったことも最後にリマークしておきたい。経営的には決して安泰とは言えないはずだが,往年の東映作品の力強さが蘇ったように思え,嬉しい。こういう骨太な作品を今後も作り続けて欲しいと思う。

2010年12月4日土曜日

平均 0,分散大

日本映画祭で 2 本の映画を観た。

まず,昼の回は「フラワーズ」。正直言って,

何じゃ,これ?

って感じ。6 人の女優が 3 世代にわたる一家の女性たちを演じ,彼女たちが命をつないでいく姿を描いた作品。設定としては大河ドラマっぽいが,大河としてのうねりは皆無。では,6 人の女優の魅力を十分に映し出しているかというとこれも不十分。ストーリーなんてどうでもいいから,6 人を魅力的に映すことに専念した方がナンボかマシだったかもしれない。セリフも演技も平板。さらには,少子化の時代とは言え,産めよ育てよ的な話の流れが古臭い上に,押し付けがましい。ハッキリ言って,主演の 6 人がかわいそうである。蒼井優なんて,「おとうと」の時とはまるで別人のように輝きを失っていた。大河ドラマならミニシリーズ化してもいいくらいの題材だと思うが,1 時間 50 分でも長く感じた。こんなの 30 分で十分。

一方,夜は,気を取り直して,今回の映画祭で恐らく一番前評判の高い,中島哲也監督「告白」

いやぁ,これは期待を裏切らない傑作だったね。娘を失くした女性教師が教室で驚くべき告白を始める。松たか子演じるこの教師の告白は冒頭 30 分近く続いて,一旦,終わる。その後,生徒や親の告白を伏線として張り巡らしながら,物語は結末へ向かって大きくうねり出す。そして,ラストも,この教師の驚くべき告白で,まさに驚くべき終焉を迎える。

原作は読んでない。原作の力もあるのかもしれないが,そこは中島監督,相当捻りを利かせているに違いない。そもそも,モノローグで紡がれる物語なんて,映画的にはあまり魅力的ではないはずなんだが,映像の力でぐいぐい引き込まれていった。各エピソード(各告白と言うべきか)のつなぎも絶妙。計算されつくした脚本と演出,それに応えた演技陣。特に松たか子は怖い。それに音楽もいい。これまでもさまざまな手で我々を驚かせてくれた中島監督だが,総合芸術としての映画の醍醐味を,しかもこんな恐ろしい物語で見せてくれた。拍手喝采

しかし,この物語には,コミュニケーション,理解,信頼,想像力などの欠如,喪失が通奏低音として流れている。こりゃ,僕のような職業の人間には,リアルなホラーだよ。あー,怖い。

ここまで衝撃的で練り上げられた日本映画を久々に見たような気がするが…しかし,この後味…アカデミー外国語映画賞は…どうだろうね?

リメイクの噂もあるようだが…アメリカ人には…無理じゃないかねぇ?

2010年12月3日金曜日

衝撃の事実

いやぁ,衝撃の事実が明らかになった。NASA の記者会見が肩すかしだったもんだから,なおさらね。

今,僕の住んでいるアパートは,学生寮の敷地内にあるビジター用のアパート。部屋にキッチンもあるが,基本的に食事は寮の食堂でとれる。ただ,もう寮には学生たちもほとんどいないし,ビジターもさすがにクリスマス休暇にはそれぞれ国や家に帰る。ここで年を越すのは,僕と,もう一人の日本人ビジター松元先生のご一家くらいだろう。

で,ここんとこ,

我々のためだけにここのスタッフ働かすのは申し訳ないねぇ。

だとか

我々の飯だけ作りに毎日来るのかねぇ。

だとか,話していた。

そうしたら,アパートのビジター対応の Maree さんと別件でメールのやり取りをしてたら,その中でこんな話が…

I'm not sure if I have mentioned this before, 
but the college kitchen will be closed 
from dinner on 24 Dec and will reopen 
for breakfast on the 4 January.

おいおい,聞いてないよ。食堂閉まるのかよ。そういうことはもっと早く言ってくれよ。

部屋にキッチンはあると言っても,ちっこいシンクと冷蔵庫と電子レンジだけ。冷食あっためるくらいはできるけどねぇ。

コンロのついたキッチンのある広めの部屋もあるので,現在,その部屋に今と同じか,もう少し安い値段でその期間だけ移れないか交渉中。理由は知らないけど,前に同じレートで移ったことがあるので,今回も行けるんじゃないかと淡い期待を抱いている。

今日返事は来なかったので,多分,月曜日にならないと結果はわからない。

ったく,何抜かす!?

とか思われてたりして :-P

この結末は,月曜以降,ご覧のページで報告します。

Stay Tuned !!

2010年12月2日木曜日

原点回帰?

今日からメルボルンで始まった第 14 回日本映画祭。オープニング作品の山田洋次監督「おとうと」を観てきた。

この作品は市川崑監督作品「おとうと」(1960 年) に捧げられているが,リメイクではない。物語の根幹の部分は似てはいて,不肖の弟を持つ姉の話。市川版では,結婚するのは岸恵子演じる姉自身だが,今回の山田版では姉の娘(演じるは蒼井優)に置き換えられていたりする。設定も大幅に違うため,完全な山田洋次オリジナル版と言える。

山田洋次は僕にとって特別好きな映画監督ではないけれども,なんだかんだ言って結構見ている(正直に告白するが,寅さんシリーズはあんまり見てない…)。ただ,いつも思うことを今回も思ってしまった気がする。いい映画だ。いい作品だし,十分に人に薦められる作品だと思う。だけど,個人的には何か物足りない感が残る。何だろう,この「ほんのちょっとの不足感」。

50 年前の市川版「おとうと」ではこんな不足感は味わっていないのだ。設定が大きく違うだけじゃなく,ビジュアル的にも市川版と山田版では大きな隔たりがある。僕が市川崑作品に共通する,いわば「シャープな映像感覚」をこの上なく好んでいることも少なからず影響しているのかもしれないけれど。

山田洋次監督は松竹大船撮影所で長い経験を積んでいるが,今回の作品はモロ松竹大船調。これまでの山田作品でも,もちろん大船の匂いを感じることは少なくないのだが,今回は,カメラワークといい,役者の演技といい,「大船調」というよりも,何というか,「小津感」とでもいうものがスクリーンを支配しているような気がした。設定は現代だし,山田流の毒も若干ながら含まれているような気がするけれど,ちょっとノスタルジックに流れたきらいがないだろうか?途中から蒼井優が原節子に見えてきたもん。僕だって小津の作品は好きでほとんど見ているけれども,今,山田洋次がそこに回帰することの意味は何なのか?特に今回は,その辺が,僕の感じた「不足感」につながっているような気がしないでもない。

吉永小百合,鶴瓶におなじみの笹野高史など役者も揃っているし,見応えのある作品だとは思う。いい作品だけど…って感じだね。

あ,あと,加瀬亮君には,こういう路線に留まらず,もっと冒険して欲しいという気もするね。いい役者なんだから。

映画の後は一杯。今日は,会場の ACMI と同じ Federation Square にある Beer Deluxe で Brew Dog というスコットランドのブルワリーの Hardcore IPA というのを試した。


スタイルとしては,ハーブのような華やかなホップの香りと苦みに特徴のあるアメリカン IPA だとは思うが,アルコール度数も高く,香りもフレーバーも,どちらかというとベルジャン・トリペルを想起させる。日本人的には,赤ミソや醤油を思わせるアロマも感じる。苦味は強烈で,カラメルのような甘みもある。確かに言われてみればハードコアってのもうなづける。これはビールというよりもブランデーみたいな感覚で,30 分くらいかけてじっくりと味わうのに適したビール。実際,僕も気がついたらチビチビと 30 分以上経ってました。

ビールの方は映画と違って挑戦的だったね。…最近こんな感想が多いな。

2010年12月1日水曜日

隠すということ

隠すということは教育ではない。

そもそも隠そうとしても隠しきれるわけがない。

何かを隠すことで人を教え導くことができると考えている人がいるとしたら,それは,地球が平らな円盤でできており,縁は滝になっていると真顔で説くことと何ら変わりはないのではないだろうか。

今日は何の話かというと,東京都の青少年健全育成条例改定について。

「NO」と言える男がまたしても「NO」と言ってしまったことに対し,さまざまな反対声明が出されていることは,各種報道で皆さんご存知の通り。マンガ家ペンクラブによる反対声明に加え,日本共産党の都議団も公に反対の見解を発表している。規制が検討されている具体的な表現内容についても,条文の検討,批判がなされている。

この辺りは,素人の出る幕ではないと思うし,既に数多く展開されている議論をなぞっても仕方がないので,自分の守備範囲で自分なりの見解を述べたい。

誤解を生まないために,まずは自分自身の立ち位置を明確にしよう。この条例改定案には絶対反対。ただ,すべてのものを無規制で垂れ流して良いと言っているわけではない。業界による自主規制や第三者によるレーティングまでは妨げない。自主規制やレーティングも基準があいまいだから反対という人もいるだろうし,自主規制という旗印の下に,無害であったはずの作品が闇に葬り去られてきた歴史も確かにある[1] が,僕はその存在そのものを否定するつもりはない。仮に自主規制やレーティングが「悪」であったとしても,それは「必要悪」だろうというのが僕の考え方だ。

例えば,我が国の映画の場合,業界団体ではなく,第三者委員会である映倫(映画倫理委員会)が審査を行ない,G, PG12, R15+, R18+ の 4 区分にレーティングしており,映倫の審査が終了しない限り,全興連(全国興行生活衛生同業組合連合会)加盟の劇場では上映できない[2]

さて,このような業界やサードパーティによる規制ならまだしも,行政や自治体が規制に乗り出すことにはやはり違和感がある。事実,日活の「太陽の季節」[3]が,当時の文部省が規制法案策定へ動き出す一因となり,それを阻止するために映倫が組織されたことを思うと,今,都議会で起こっていることが何とも皮肉に思えてならない。

現在,提案されている条例案は,特定の表現への規制にも言及しているようだが,そもそも憲法の規定の下に「表現」が「自由」である以上,コンテンツの性質によりいかなる規制をかけようとも,その裏をかくような「表現」がクリエイターにより創出されて,いわゆる「イタチごっこ」が繰り広げられることは想像に難くない(注)。その結果,規制の範囲はどんどん広がって,本来保証されるはずの自由が奪われていくことにつながりかねない。そういう意味で,表現されるものの性質により法的規制を加えることにはそもそも無理がある

彼らからしてみれば,法や条例で規制するのはもっとも簡単で,かつ,一見,有効に見えるのかもしれない。しかし,その裏で,これはもっと大きな問題を孕んでいる。

例えば,子供たちが,規制されているものを一切見ることも聞くこともできないとすれば,どのようなものがなぜ規制されるのか,その理由や背景について考え,議論し,教え説く機会が奪われかねない。このことは,単に教師や親が,これらの問題を議論の俎上に挙げる機会を削ぐだけでなく,ひいては,隠ぺいによる教育の硬直化をも引き起こしかねない。中世から現代に至るまで,同様の問題で人類は多くの悲劇を経験してきたではないか!

本来,見聞きすること自体が問題ではないはずで,程度の差こそあれ,見せた上で,それをどう捉えるか,問題だとすれば何が良くて何が悪いのか,そこで議論が生まれるべきである。そこに教育が入り込む余地がある,いや,入り込むべきなのだと僕は思う。ネットや携帯の問題にしても同様だが,何を見せて,そこで何を子供たちに教え,伝えていくのか,その選択権が教師や親による教育の現場にあってしかるべきだ。もちろん,それが容易ではないことは理解しているつもりだが,これは親や教師に与えられたある種の使命であって,我々が果たさなければならない責任なのだろうと思うのだ。

今回の条例改定は,そのような教育の機会を奪う危険性を大いに孕んでいる上に,教育の冒涜にも他ならないことを,ここで声を大にして訴えたい。

あるいは,彼(ら)は,「教師や親はそのような教育を行なう必要は一切ない,すべては行政が解決するのだ」とでもいう時代錯誤も甚だしい,のぼせ上った考えを抱いていたりするのだろうか?

今回の一連の騒動を見ていると,前世紀初頭に小説「われら」[4]でザミャーチンが痛快なまでに批判した,かつての大国の姿が都の姿に重なって見えるようだ。

もし,この条例が可決され,このような規制の下で育った子供が教育者や親になったとき,どんな社会がやってくるのか,想像すると少し怖い。仮に,そんな恐るべき未来を小説のような形で表現したとしたら,この条例によって,ザミャーチンのように規制や弾圧を受けることになるのだろうか?


《参考文献》
[1] 森達也(著), 放送禁止歌,  知恵の森文庫 (2003).
[2] キネマ旬報映画総合研究所(編),映画検定公式テキストブック, P.204, キネマ旬報社 (2006).
[3] 古川卓巳(監督), 石原慎太郎(原作), 太陽の季節, 日活 (1956).
[4] ザミャーチン(著), 川端香男里(訳), われら, 岩波文庫 (1992).


(注) この辺りは酒税を巡る第三のビール問題とも関連する。この意味で僕は日本のビール業界の努力を極めて高く評価する。

追記:
今,僕の住むオーストラリアにも,もちろん,レーティングはあるが,実はこちらは政府主導の機関が審査していて,区分も E, G, PG, M, MA15+, R18+, X18+ と日本よりも細かい上,テレビ番組や CM も対象で,印象としては基準も日本よりキツイ感がある。ただ,日本では恐らく見られないだろう映像をこの国で見ることは可能だし,E から M まではテレビでの放映も可能だったり,運用面では,若干のユルさがあるのもお国柄かもしれない。あくまでも,僕の個人的な憶測にすぎないけれども…